リビング京都 中央版 4月21日号
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2012年4月21日1586号慣れ親しんだ光景、歩きなれた道。でも、ふと考えると「コレってなんでなんやろ」と不思議に思うことはありませんか。今回は、読者から寄せられた京都の街に関する謎を明らかにする特集です。解明してくれたのは、京都の歴史に詳しい濱田浩太郎さん。ナビゲーターは、謎大好き、「なぁ造」です。「そういえば…」が「そうやったん!?」に変わりますよ。撮影/山﨑晃治ほか イラスト/かわすみみわこ「通称〝たらたら坂〞のことですね。この高低差謎を明らかにしてくれたのは─◇2面に続くが生じた理由は鴨川にあります。寺町通は1000年以上の歴史がある通りで、平安京の東の端にあたりました。そしてその当時、三条通から見たとき、寺町通は平坦なのに、東隣の新京極通は坂道になっているのはなぜ? (SA・54歳)今の新京極通の場所は、鴨川の河原だったのです。寺町通よりも低い位置にあったんですね。1590年(天正18年)に豊臣秀吉が三条大橋を作ったとき、三条通を寺町通から橋まで延長させましたが、このとき、河原を通る部分がぬかるまないように三条通をまっすぐに作ったのです。この時点で、三条通と河原の高さがずれてしまいました。そして時がたち、1872年(明治5年)。京都府によって、河原だったところに新京極通が誕生。この際、高低差をカバーするために現在のような坂道ができたというわけです」堀川通の西にある猪熊通。細くて、途中道が途切れたりしているのに、北は御薗橋、南は上鳥羽のあたりまで長く続いているのが不思議です (れいこ・36歳)「猪熊通は、平安京の猪熊小路にほぼ相当します。この猪熊小路の北端は、当初は織物に関係が深い『織部町』や『大舎人(おおとねり)町』で、南端には平安京の巨大な市場である『東市』がありました。この2つの大きな経済地域を結んだ猪熊小路は大いににぎわっていたと考えられます。さらに中世以降は、織物業(現在の西陣織)が繁栄したことで、猪熊小路は北へ北へと延びていきました。その後、応仁の乱や戦国時代に道が途切れたこともありましたが、江戸時代には一部が復興。しかし、二条城の築城などもあり、現在のように道が途切れているのです」「平安京の構造に関係があります。平安京の南の端は、羅城門があった九条大路、現在の九条通です。現在ある十条通は平安京とは関係なく、明治以降に作られた通りなのです。十条通も新たに加わったものですから、十一条通がないのも納得できますね」一条から十条まで通りがあって、十一条以降がないのはなぜ? (あおけん先生・39歳)ナビゲーターのなぁ造北向きに猪熊通を見たところ。突きあたりは二条城ですコレはいらないんだね~左のお店と道を見ると、坂になっているのがよく分かるよ「歴史には多くの謎があります。その謎を解き明かそうとしたとき、推測の域を超えないことや考え方に諸説あることもあります。さまざまな考え方があると思うのも楽しいのでは?」リビングカルチャー倶楽部講師ことのは語り講座主宰濱田浩太郎さん編集/内山 掲載日:0421 出稿表:001-9 サイズ:全13 記事名:フロント1面_京都の謎制作宮本出力→編集部●●宛2012年4月21日1586号女性のための総合生活情報紙2012年4月21日1586号☎075(212)4411㈹http://kyotoliving.co.jpリビング京都がまるごと読めるhttp://kyotoliving.co.jpるめ始めました電子ブックPICK UP土曜日発行◎無料発行/広告は☎075(212)4411㈹ 記事は☎075(212)4422㈹★配布はリビングプロシード☎075(241)2122㈹新築・リフォームする前に、この一冊を手に入れて3ゴールデンウイークは近場でワクワク7グリーンがまぶしいサラダランチ12
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